――誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる…。 靄のかかったような意識の中で、直子はそう感じとっていた。女の子の声が微かに聞こえた気がする。また例の夢を見ているのだろうか…。 その時、耳元で無機質な音楽が鳴り響き、現実世界へと引き戻される。ぼんやりとした視界の中で、携帯電話の着信ランプが点滅しているのが見えた。 「(いつの間に…眠っちゃったのかな…)」 ベッドに上半身を預けた格好のまま、うたた寝していたようである。自宅に帰ってきた後、着ていたものを全て洗濯機に放り込み、シャワーを浴びて、部屋着に着替えて…という辺りまでは覚えているが、その後の記憶が無い。 時計を見るともう昼過ぎだった。しばらく休んでいたにもかかわらず、未だ精神的にも肉体的にも疲労の極みにあった。誰かと話したいような気分では無かったが、一応床に転がっていた携帯電話を手に取り、液晶画面を開いた。 「千奈美…」 そこには今日一緒に遊びに行くはずだった親友の女の子の名前が表示されていた。電話に出るかどうか一瞬迷ったものの、通話ボタンを押して耳に当てた。 「もしもし…」 後ろめたい気持ちを抱えながら、消え入りそうな声で呼びかけた。何せ今日の約束を突然反故にしてしまったのである。いくら仲の良い親友とはいえ、きっと怒っているに違いない。おどおどしながら相手の反応を待つ直子。 「直子、大丈夫?」 予想に反して、千奈美は心配そうな声で話しかけてきた。 「もしかして寝てた?…まだ具合が悪いの?」 「さっきの電話の声も元気無かったから…心配したんだよ。」 次々と質問を投げかけてくる。ほとんど千奈美が一方的に喋っているが、鬱陶しいとか、お節介だとかいう感じは受けない。彼女の明るくて誠実な人柄がそう感じさせるのだろう。 親友の活力のある声を聞いているうちに、直子も少しだけ気が楽になってきた。私からも謝らなくちゃ…。そう思って口を開きかけた時だった。 「わたし、もう家の方まで戻って来ちゃってるんだけど、 これから直子の家に寄ってもいい?」 千奈美の家は最寄り駅こそ違うが、直子の家と近い距離にあった。 「体調悪かったらやめておくけど…せっかく会う予定だったんだし、ね?」 「………うん、いいよ。待ってる」 さらに二言三言交わして電話を切った。携帯電話を床に置くと、小さなため息をつく。 「(どうしよう…私……)」 正直言って今は人に会いたい気分ではなかった。しかし、千奈美に例のことを相談してみようと考えていたことをふと思い出したのである。ただ、彼女にそんな突拍子もないことを打ち明けていいものかどうか、まだ迷いはあった。 「(でも、今日だって…わたし……)」 先ほどの電車の中での出来事が脳裏によみがえる。突然お尻を襲った衝撃、そして衆人環視の中でのおもらし…。ちょっと思い返しただけでも、お尻の谷間の奥に疼くような感覚がこみ上げてきた。 ひょっとしたら知っている人に見られたかもしれない。そう考えるだけでも血の気が引くような気分になってしまう。電車の中で下着を膝まで下げ、はしたない声を上げて悶えていたのである。一度噂になってしまえば、どう言い訳したところで無駄な気がする。 「千奈美……」 親友の顔を頭に思い浮かべ、少しでも嫌な気分を振り払おうとする。再びベッドに顔を埋め、シーツを強く握り締めた…。 --------------------------------------------------------------------------- 「そう…なんだ……」 予想していたことではあったが、さすがに千奈美も半信半疑の様子であった。ただ、信じてくれたかどうかはともかく、いきなり直子を笑い飛ばすようなことはしなかった。 トンネルで起こった車での出来事から始まり、立て続けに見た奇妙な夢のことや、電車での痴漢めいた体験など、直子は順を追って千奈美に説明していった。さすがに恥ずかしくて話せないことも多くあり、話が曖昧になってしまったところもあった。 2人は直子の部屋で小さなコタツを挟み、向かい合って座っていた。千奈美は幼馴染ということもあり、過去に何度も家に遊びに来たことがあった。リラックスした格好で、話の合間に何度もうなずきながら直子の話を聞いていた。 話している間は真剣な目で真っ直ぐにこちらを見ていた千奈美だったが、今日の電車の中での出来事まで聞き終わると視線を下に逸らした。ショートカットの髪の毛の先を指に絡ませながら、考え込むような表情を見せる。 「(やっぱり…信じてくれないよ…ね)」 2人とも無言のまま、しばらく沈黙の時間が続いていた。そして耐え切れなくなった直子が声を掛ける。 「ごめんね、千奈美。変な話を聞かせちゃって……忘れてくれて、いいから…」 「…ねぇ、今からそのトンネルに行ってみない?」 直子の言葉を聞いていなかったのか、千奈美が突然思いついたように言った。 「今…から……?」 「うん。だって学校のある日に行ったら遅くなっちゃうでしょ。 一週間も悩んでたら疲れちゃうし、今から行こうよ。」 「大丈夫。わたしがついてるから。」 千奈美は早速腰を上げると、戸惑う直子の手を引っ張ながら明るい調子で言った。 「うん……」 あまり乗り気のしない様子でゆっくりと立ち上がる。ふと窓の外の景色を見ると、もう夕暮れ時だった…。 --------------------------------------------------------------------------- 「直子はいつ引っ越すとか考えてる?」 トンネルまでの道中、2人は他愛もない話を続けていた。気を遣っているのか、千奈美も例の話題にはふれようとしない。もっとも、直子の方も助手席に人を乗せて運転するのは初めてだったため、悩んでいる余裕はあまり無かった。 「春休みを使えば大丈夫かな…って思ってるんだけど、遅いかな?」 正面を見据えて、固くハンドルを握り締めたまま直子が答えた。 直子も千奈美も、今年の春から東京の学校に進学することが決まっていた。近い場所に住もうね、なんて話を最近良くしている。 「遅いでしょ…直子ってばのんびりしてるんだから……いたっ!」 「ごめん、千奈美、大丈夫?」 タイミング悪く急ブレーキを踏んだのは直子だった。もっとも、わざとやったわけではなく、運転技術の未熟さ故である。 「……ここ?」 千奈美の問いに、直子が無言でうなずいた。 舗装された一本道。両脇には民家もなく畑や林が広がっている。そして数十メートル先には、トンネルが暗い穴を開いているのが見えた。先日直子が車で通り抜けた際の出口側である。 「ここかぁ。懐かしいね。小学生の頃、何度か3人で遊びに来たことあったよね。 怖い噂が立ってからは来なくなっちゃったけど… あれっていつ頃だったけ…………直子?」 反応が無いのを訝しく思った千奈美が運転席の方に顔を向けると、怪訝そうな表情を浮かべてこちらを見ている直子の様子が目に入った。 「どうしたの、直子?」 「3人…って誰?わたしと、千奈美の他に……?」 「やだ、覚えてないの?あんなに仲良かったじゃないの。 いつだって――。」 そこまで言いかけて、千奈美は突然口をつぐんだ。何か思い出してはいけないことでもあったかのように…。 「わたし、とりあえずトンネルのところまで行ってくるから。 直子はここで待ってて。」 「あ……千奈美」 千奈美は妙に慌てたような様子で助手席のドアを開けて外に出た。膝の上に乗せていたコートを羽織ると、小走りでトンネルの方へと向かって行く。 「(千奈美、どうしたんだろう…)」 本当は自分も一緒に行けば良かったのだろうが、彼女の不審な態度が気になってしまい、声を掛けるタイミングを逸してしまった。 こちらに背を向けて歩く千奈美の肩口から、白い息が立ち上っているのが見えた。春も近いとはいえ、日没直後ということもあって急に冷え込んできたようである。消えかけの太陽光に照らされて、まだ周囲は薄っすらと明るかったが、遠ざかるにつれて千奈美の背中が次第にぼんやりとしか見えなくなってきた。 トンネルのところまでたどり着いた千奈美は奥の方を覗き込んだ後、こちらに手を振って何か叫んでいるような仕草を見せた。 「何?千奈美…聞こえないよ」 慌ててドアを開けて車から降りたが、その時には既に親友の姿は視界から消えていた。おそらくトンネルの中に入っていったのだろうが、直子の胸には言いようのない不安感が沸き起こり始めていた…。 |
| 目次 | Original Novel | 次へ |