〜吐露〜







「葵、着替え終わった?」
 玄関の方で少女の声が響き、階段を上がる足音が聞こえてきた。
(綾香さんだ!)
 この上なく最悪のタイミングである。部屋を見渡せば、薄黄色の液体が満たされたガラスのコップと、床に広がる水溜りが目に入る。その傍らには放心状態で座り込む一人の少女。彼女の頬は白い粘液でべったりと汚れている。
(どうしよう、どうしよう)
 焦ったところで事態は全く好転しない。足音は次第に大きくなり、とん、と際立って大きな音が響いた後、静寂が訪れた。もう二階に着いてしまったのだろうか? 階段を上がったところから葵の部屋まではほんの数歩の距離しかない。
(もうだめだっ!)
 素早く扉を閉め、ドアノブに体重をかけて入り口を塞いだ。時間稼ぎにすらならない行為だが、何の説明もないままこの部屋に綾香を入れるわけにはいかない。
(……あれ?)
 言い訳の言葉を必死に捜していた葵の耳に、離れた場所でドアを開け閉めする音が届く。きっとトイレに入ったのだろう。他人の家で用を足すときは一言断りそうなものだが、幼い頃から頻繁に葵の家を訪れている綾香にとっては普段通りの行動である。
 とにかく、僅かではあるが体裁を整える時間ができた。
「……っと」
 膝下まで下ろしていたショーツを腰まで引き上げ、部屋の中央に素早く引き返す。コップをベッドの下へ押し込み、周りにこぼれていた小水を先ほど脱いだ部屋着に染み込ませた。そしてティッシュ箱に手を伸ばしかけた時、部屋の外からトイレで水を流す音が聞こえてきた。綾香がこの部屋に来るまでいよいよ時間の余裕はない。
「響ちゃん?」
 一方、響は惚けたような表情を浮かべて床にへたりこんだままだった。
「これで顔拭いて。……ねぇ、聞こえてる?」
 ティッシュを何枚か差し出したが、響は虚ろな目で部屋の一点を見つめたまま、全く動こうとしない。
「早くしないと、綾香さん来ちゃうよっ」
 そう言って手に紙を握らせようとした時だった。
「葵、何してるの? 入るよ」
 部屋のすぐ前で、聞き慣れた少女の声が響く。
「あ、ちょっと待って!」
 ドアを開けさせまいと部屋の入り口に駆け寄ったが、僅かな差で間に合わなかった。ドアノブを押さえようとした手は空を掴み、勢いのついた葵の体は綾香と衝突した。
「どうしたの!?」
 少年の体を受け止めた綾香は驚きの声を上げた。
「あの、今、ちょっとだめだから……」
 真正面から胸に飛び込む格好となり、頬を柔らかい感触が包み込んだ。慌てて身体を離して来訪者の顔を見上げた。
「ごめんなさい、綾香さ……ん」
 まず視界に飛び込んできたのは、驚愕の眼差しを浮かべて部屋の様子を見つめる綾香の姿だった。
(見られちゃった……どうしよう)
 綾香の瞳に映る光景は、後ろを振り返るまでもなく容易に想像できた。全身から力が抜け、現実感が急速に薄れていく。次に彼女がどんな言葉を発するのか、予想もできないし、したくもない。ただ、震える手で綾香の腕を握り締めながら、立っているのがやっとだった。
「こんにちわ。お邪魔してます」
 その時、葵の背後でやけに冷静な口調で話す少女の声が響いた。驚いて振り返ると、さっきまで茫然自失の体で座り込んでいたはずの響が立ち上がってこちらを見ていた。不敵な笑みを湛え、ティッシュで顔についた粘液を拭っている。わざと二人に見せ付けるように、ゆっくりと。
「葵ちゃん、ティッシュありがと」
 響はそう言って近寄ると葵の手をとり、綾香の横を抜けて部屋の外へと向かう。
「ごめん、これから葵ちゃんと出かける予定なんだ。何か先約あった?」
「い……え、行ってらっしゃい」
 綾香としては努めて冷静に答えたつもりだったのだろうが、傍目にもわかるほど唇が震えている。
「あや……」
 この状況について説明すべく口を開きかけたが、その後に続く言葉が全く思い浮かばない。綾香を部屋の前に残したまま、葵は響に手を引かれて階段を降りていった……。

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「さっきの藤崎の顔見た? すごい顔してたよね」
 前方を歩く少女は、先ほどから少し興奮したような口調で喋り続けている。
 ここは葵の家から最寄駅へ向かう途中の細い路地である。彼ら以外に人通りはなく、夕闇が訪れる前の時間ということもあって、ひっそりとした雰囲気が漂っている。
(綾香さん、怒ってるかなぁ……)
 少女のポニーテールが左右に揺れる様子を後ろからぼんやり見つめながら、葵は綾香のことを思い返す。結局響に連れられるまま、何の説明もなしに家を出てきてしまった。綾香は葵たちが部屋で何をしていたのか、見当がついているだろうか? そして今はどんな気持ちでいるのだろうか……。

「ごめん、気を悪くした?」
 いつの間にか響が心配そうな表情でこちらを見つめていた。夕暮れの日差しに照らされて、白い肌が薄っすらと赤く染まって見える。
「そんなことない……よ」
「ねぇ、葵ちゃんは藤崎と付き合ってるの?」
「えっ……と」
 冗談でも言っているのかと思ったが、響の真剣な眼差しを見て口ごもる。
「……良くわからないよ」
「だって藤崎、我が物顔であなたの家に入ってきたよ?」
「それは子供の頃からずっとだから」
「ふぅん、幼馴染ってやつ?」
 少し意外そうな表情を浮かべた後、響は再び歩き出した。葵も慌てて後を追う。
 改めて考えてみると、自分と綾香の関係は世間からどのように捉えられるのだろうか。数え切れないほど一緒に出かけて、買い物をして、ある時は恥ずかしい姿を見られてしまって……。
 そう言えば、綾香以外の女の子と二人きりで外を歩くのなんて、初めての経験かもしれない。葵より背の高い少女の横顔をこっそりと見上げる。表情が豊かで、笑うとくるくると動く瞳。少しだけつり目がちのせいか、初対面の時はきつめの性格に感じたが、実際に会話を交わすと女の子らしく可愛らしい一面を見せる。いわゆる美人で整った顔立ちの綾香とはまた違った魅力を備えている。

「ね、ちょっとトイレ行ってくる」
 突然響が振り返って言った。
「えっ? あ……うん」
 彼女の顔を見つめ続けていたことに気付かれたのかと慌てて視線を逸らす。そんな葵を尻目に響は別の方向へ歩き出した。その先には小さな公園と、公衆トイレが見えた。


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「こんな汚いところじゃできない。どうしよう」
 個室のドアを開けた途端に響は踵を返してトイレの入り口へと戻ってきた。眉間に皺を寄せて不安げに辺りを見回している。スカートの端を両手でぎゅっと掴み、細かく足踏みを繰り返している。我慢の限界が近いのだろうか。
「こっちきて」
 思い詰めたような表情を浮かべた響は葵の手を取るとトイレの裏手に広がる茂みへと入って行った。木の間をぬって奥へと進む。一歩踏み出す度に足元で落ち葉がガサガサと音を立てた。
「どうするの?」
 葵が声を掛けると、響は振り返って言った。
「……さっきのお詫びに見せてあげる」
 夕暮れの日差しもほとんど届かない場所に佇む二人。表情の細部は見てとれなかったが、響の真剣な眼差しが葵を見据えていた。少女はおもむろに両手をスカートの中に入れると、少し身を屈めてショーツに指をかけた。普段はスカートで隠されている白い太股が露わになる。未成熟ではあるが適度な肉感を有する脚のラインが、愛らしさの混じった色気を漂わせる。
「え……ちょっと」
 想定外の行動に戸惑う葵を尻目に響は下着を膝上まで下ろしてその場にしゃがみ込んだ。スカートの布地を手前に引き寄せ、身体を小さく左右に揺らしながら足場を確認する。
「僕、向こうで待っているから!」
 当惑した葵はうわずった声を上げた。少女が何をしようとしているのか、やっと察することができたのだ。
「待って!」
 背を向けてその場から去ろうとした瞬間、力強く手首を掴まれた。
「今、一人にされたら……私が困るから」
 最後の方は聞き取れないほど弱々しい声だった。しばらく静寂が続いた後、微かな布ずれの音が耳に届く。
 落ち葉の上で水滴が跳ねる音が断続的に聞こえたかと思うと、しゃあっという水音が響き渡った。
葵 「あっ」
 想像していた以上の音の大きさに動揺したのか、響が小さく悲鳴を上げた。方向が定まらないのか、落ち葉と地面の上で水が跳ねる音が交互に響く。
「んっ…」
 相当長い時間我慢を続けていたのか、放出はなかなか終わらない。一瞬途切れることがあっても、再びしゅうっという激しい水音が続く。その度に響は小さく熱い吐息を洩らした。
(あっ……!)
 ふと足元に目をやると、地面を伝ってきた小水が葵の靴底を濡らし始めていた。
反射的にその場から飛び退きかけたが、その行為が響を傷付けてしまう気がしてぐっと踏み留まる。
 そもそも汚いなどという感情は湧いてこなかった。地中に染み込むスピードを越えて面積を増す水溜りから湯気が立ち昇る。微かなアンモニア臭が鼻をついた途端に、何故だか急に鼓動が高まり、背筋が粟立った。
「ごめんなさい!」
 身体の奥から沸き起こった不安な感情に突き動かされ、謝罪の言葉が口をついて出た。
「……何で謝るの?」
「何でって言うか、ほら、さっきの部屋でのこととか、色々……」
「ねぇ、ティッシュ持ってる?」
 しどろもどろの言い訳を始めた葵をよそに、響は焦燥感の混じった口調で言った。
「う、うん」
 いつの間にか小水が落ち葉を叩く音が止んでいた。葵は部屋で手にしたティッシュの残りがポケットにあることを思い出し、取り出して響に差し出した。しゃがんだままこちらを見上げる少女と目が合う。頬をほんのりと赤らめ、目を潤ませている。ティッシュを受け取った後、葵の方に視線を向けたまま動こうとしない。
「どうしたの?」
「あっち向いててよ!」
「ごめんなさいっ!」
 苛立ったような声が響の口から発せられ、葵は慌てて背を向けた。紙の擦れる音と、しばらく間をおいて衣ずれの音とが聞こえてきた。最後にぱたぱたと埃を払う音が響く。もう振り返っても大丈夫だろうとは思ったが、また怒られるのが怖くてその場に立ち尽くす葵。
(え?)
 逡巡する少年の背中に唐突に柔らかい感触が広がった。響の両腕が葵の身体を包み込む。
「ごめんね……謝るのは私の方だよね」
 耳元で響が囁いた。
「葵ちゃんには、ずっとずっと、何倍も恥ずかしい思いさせちゃったのに」
 少女の体温と、早鐘を打つ心臓の鼓動が背中越しに伝わってくる。
「私なんて、おしっこの音を聞かれるだけですっごく恥ずかしかった」
 葵を抱き締める腕にぎゅっと力が入った。しばらく沈黙の時間が続く。熱い吐息が葵の首筋をくすぐり、少女の呼吸に合わせて押し付けられた胸が上下する。

「ねぇ、藤崎とは単なる幼馴染なんでしょ?」
「う……ん」
「じゃあ、付き合ってよ」
「付き合うって、何に?」
 返答を聞いた少女は身体をびくっと震わせ、暫しの沈黙を挟んでくすくすと笑い始めた。葵は自分が何か勘違いしてしまったのかと困惑する。
「そっか。年上の女の子に言われてもぴんとこないか」
 響は葵の肩を掴んで自分の方へ振り向かせた。至近距離で向かい合う二人。視界の中央に上気した少女の顔が映る。

「何て言えば良いのかな。つまり……私の彼氏になってよ」








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